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横田理博「羽入-折原論争への応答」
以下の文章は、横田理博様から寄せられた応答です。

2004.2.1.

 

橋本努様

 

 前略

 

 ご論考をお送りいただきまして、ありがとうございます。

 

 橋本さんの問題提起を受けて、私の所感をしたため「応答責任」を果たしたいと思います。

 

 羽入辰郎氏の『マックス・ヴェーバーの犯罪』については次のように考えております。

 彼の“間違い捜し”は所詮、ウェーバーのテーゼの“例示”のレヴェルの間違い捜しに過ぎず、例示の仕方を間違えたからといって骨組みとしてのテーゼ自体の間違いにはならないと考えられます。たとえば、ルター訳聖書の「コリントT」7-20Berufという訳語がなくても、ルターに「Beruf(職業=使命)」倫理が存在していたとはいえるし、また、フランクリンが倫理的というより功利的な生き方をしていたといえるとしても、自己目的の倫理としての「資本主義の精神」を設定することはできます。テーゼ自体の検証には彼は全く手をつけようともしていません。彼の間違い捜しがそういう位置づけしかもたない(つまり、ウェーバーのテキストの批判にとどまり、新たな歴史学的寄与を伴ったものではない)にもかかわらず、あたかも従来のウェーバー研究をまっこうからくつがえす大発見であるかのごとくアピールしているのは、少なくとも不適切な表現であると考えます。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という著作はどういう筋道の著作なのか、これを羽入氏は正確には提示していません。『プロ倫』の中味を知らない読者は、羽入氏がとりあげて批判しているところを『プロ倫』にとって重大な箇所だと誤解し、そこが反駁されたのだからもう『プロ倫』はダメだと短絡的に判断してしまいます。ウェーバーを丹念に読んできた人間ほどこの書に反発を抱き、ウェーバーを知らない人ほどワクワクする“推理小説”のようだとこの書を賞賛する、という事態の理由はここにあります。

 ウェーバーの著作は、古典として名前が定着する一方で実際にはあまり読まれなくなっており、そしてウェーバーの主張が正しいのかどうかといった関心はほとんど失われているのが現状です。この無関心さをついたのが羽入氏の問題提起だったといっていいでしょう。(私自身は、ウェーバーの主張が常識化される一方で、同時代のゾンバルトやシェーラーの「資本主義の精神」論が全く忘却されていいのか、という羽入氏とは全く別の観点からこのことを問題にしています。)ウェーバーが参照した資料に自分もあたってみるという羽入氏の地道な作業は、それ自体は尊重されてよいでしょう。しかし、そこで間違いを見つけたからといって、文脈の軽重をわきまえずに「犯罪」を告発してしまう軽率さは批判されざるをえません。

 ウェーバーに間違いを捜せばいくらでもあると思います。かりに八方破れであったとしても、その中に光っているものを極力ひきだそうとするのがウェーバーを読む意義です。研究者の価値関心に応じてウェーバーからひきだされたものの価値は、羽入氏の指摘するような間違いがあろうがなかろうが変わらないはずです。

 

 さて、羽入氏の著作に対して、折原先生が透徹した反駁書を書かれたことに対して私は敬意を表しております。そして、折原先生が、自分のような老兵が出てこざるをえないような、若いウェーバー研究者たちのだらしなさを痛感されていることについては、私も自戒せざるをえないところです。

 ただ、ウェーバー研究者が羽入氏の主張に対してこれまで全く批判を試みなかったわけではありません。私自身も、『マックス・ヴェーバーの犯罪』が出版される以前に、『思想』に掲載された羽入論文について短い批判を自分の論文の註に入れてはおりました。下記のような内容です。

 

羽入辰郎「マックス・ヴェーバーの『魔術』からの解放――『倫理』論文における Beruf概念をめぐる資料操作について」(『思想』第885号、1998年、所収)は、「コリント人への第一の手紙」7-20のルター訳に》Beruf《という訳語が一度もなかったことを示してウェーバーの誤りを批判している。しかし、世俗的職業を神から与えられた使命だと考える観念がルターおよびルター派にあった、ということがウェーバー・テーゼにとっては重要なのであり、そのことはこの翻訳問題によってくつがえされるわけではない。少なくとも「ベン・シラの知恵」11-20, 21では世俗的職業のことを》Beruf と訳したこと、また、「現代の普及版ルター訳聖書」の「コリントT」7-20には》Beruf《 という訳語があることは、ルターおよびルター派にいわゆる「ベルーフ倫理」の観念が存在することの表れであると看做せる。観念(思想内容)が訳語の選択の仕方に表れうることは確かだが、訳語の不在が観念の不在を証明することにはならない。

 

残念ながらこのコメントを含む原稿はいまだ出版に至らず、日の目を見ていないのですが、通常の研究者にとって、他の研究者に対する反論は、自分の論文の中で多少のコメントをするという形しかとれないのではないかと思っております。

 

 ウェーバーからいったい現在何を学ぶことができ、教師は学生にウェーバーのどういうことを教えるべきなのか、という橋本さんの大きな問題提起については、今後とも真摯に考え、論文や大学での授業内容という形で表現していきたいと考えております。

 

                              草々

 

2004年2月1

 

                               横田理博